南蛮井戸
南蛮人が堀った井戸なのでこう言います。
この地は『サンジョアン
・バウチスタ教会』があり、禁令の出た後教会は壊されましたがこの井戸は残りました。 抜け道があるなど色々な伝説があります。南蛮井戸のすぐそばに離れの一室があります。昔、丁度この場所に『寝返りの間』がありました。 『枕返しの間』ともいい、この部屋に寝た人は朝になったら頭と足が逆になるほど寝苦しいと言われている部屋です。住職は毎朝お経をあげるのが日課になっております。
三浦悟門のお墓
三浦悟門は文化六年(1809)に生まれ、五十二歳の時、万延元年(1860)亡くなっております。
長崎の名家の出で、本興善町の乙名(町の役にあたる)をつとめる惣之丞の子。
三浦惟純という名でしたが、通称『惣介』と呼ばれました。
代々長崎会所の目付をつとめた家柄といいます。
幼い頃から絵を好み八歳で馬の絵を描き十余歳で武者絵の大作を描いたといいます。
初め、渡辺鶴州に入門をして、後に石橋融思に学び、山水、人物、花鳥すべて巧みだったといわれます。
中でも山水に秀でて、長崎に南画が栄えたのは彼の力が大きかったといわれます。
日高鉄翁、木下逸雲と並んで南画の『長崎三筆』のひとりとされます。
安成末のコレラ大流行の時に鐘馗さまが疫病神を手づかみにした絵を描いて掲げ、一家は一人の病人も出さなかったという伝説があります。
人柄は清潔で穏やか、酒が好きで愉しみながら絵を描いたと言われます。
家の門内に、一本の梧桐樹(あおぎりといい琴・建具に使う)があり、そこで好んで『梧門』と
号したのです。
門人に伊東深江などがあります。
代官さんのお墓
文禄元年(1592)長崎は民政がしかれ、奉行がおかれました。
長崎市政は地役人があたって、そのトップが『町年寄』と呼ばれました。
同時に長崎代官として村山等安が任命されました。
徴税行政を行ったといいます。
後に末次家に変わりましたが四代目の時に密貿易で免官、代官は一時町年寄が代行しました。
元文四年(1739)町年寄の一人高木作右衛門が代官に任命され、以後高木家の世襲となって明治維新まで続きました。
長崎代官は、奉行の命にも従いますが、幕府の勘定奉行とも連携したと言いますから要職と言えるでしょう。
最後の代官は高木作右衛門定知でした。
五輪塔形式の墓碑は少なくないのですが墓碑群として現存するものは少ないでしょう。
十三基の五輪塔は欠けているものもありますが、現在、長崎市指定の文化財となっております。
沢村惣之丞(関雄之助)のお墓
文久二年(1862)坂本龍馬と共に脱藩して、勝海舟の門下に入った人です。
日本海軍設立に向け、神戸で二百人の人々が集まりましたが、その中にこの二人も居たのです。
やがて、慶応元年(1865)二人は薩摩藩の意を受け、長崎に赴きました。
伊達小次郎
(陸奥宗光)らと共に『亀山社中』という浪士集団ができました。
日本最初の貿易商社です。
血気盛んな連中が揃って白袴を着けていたので『亀山の白袴』と評判になったと言います。
長州藩が薩摩藩名義を使って小銃を輸入した際、社中が便宜をはかったと言います。
トーマス・グラバーは武器の買い付けなど長州藩にひそかに協力したようです。
慶応三年(1867)土佐藩は、龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪を許し、龍馬に『海援隊』慎太郎に『陸援隊』を組織させました。
海援隊は『社中』を母体として、経済活動も目的にする等、純然たる軍隊ではありませんでした。
活動は始まりましたが、この年の十一月、龍馬も慎太郎も暗殺されました。
龍馬没後から二カ月が過ぎた明治元年(1868)一月十四日夜、長崎奉行所を警護していた海援隊の沢村惣之丞(関雄之助)は駆け
込んできた薩摩藩士を誤って射殺してしまいました。
沢村は責任をとり『生きて世に 残るとしても生きて世に 有らむ限りの齢なるらめ』の辞世を詠じて、自決しました。
当山中腹の墓地に『村木氏外土佐住民の諸氏之墓』と刻まれた墓石に関雄之助の名が見えます。
二十六歳の若さでした。
森山多吉郎の墓
森山多吉郎は蘭通詞(オランダ語の通訳)の家系にあって、文政三年(1871)を生き、幕末に活躍しました。
嘉永元年(1848)利尻島で捕えられたアメリカの捕鯨船乗組員ラナルド・マクドナルドが長崎に送られて来ました。
この時、翌年まで滞在した十ヵ月の間、森山は英語を学びました。
その後、ロシアで海軍提督プチャーチンが長崎に来た時通訳をしました。
安政元年(1854)幕府の訳官になってペリーが浦賀に来て開国の交渉に加わり、折衝に参加しました。
ペリーは捕鯨船の補給基地として日本の開港、開国を迫ったのですが、その延期に森山は尽力したのです。
また、ロシアとは樺太国境問題が生じて、その交渉では北緯五十度線に境界を定めることに活躍をし国益を守ったといいます。
『外国奉行支配調役』に就いた後、維新後の新政府には参加していません。
東京で没しました。
五十一歳の生涯でした。
古賀十二郎の墓
小説、映画になった『長崎ぶらぶら節』に登場します長崎の芸妓、愛八さんと『ぶらぶら節』という歌を掘り起こし、再び世に出しました。
古賀は『浜ぶし』という歌の作詞をしてそれを愛八さんが歌って流行したといいます。
古賀十二郎は明治十二年(1879)長崎市五島町で生まれました。
家は代々黒田藩御用達で屋号は萬屋といい、十二郎は十二代目でした。
明治二十八年(1895)長崎県立商業学校を首席で卒業しました。
在学中に菅沼貞風の『大日本商業史』に深く打たれ、自分は長崎の対外交渉史の研究に生涯をかけようと決意、十九歳で上京、東京外国語学校に学びました。
卒業後、中学校で二年間英語を教え長崎に帰ってきます。
やがて
『長崎評論』を創刊し、『長崎史談会』を組織しました。
大正八年(1919)『長崎市史』編纂の事業が始まり、古賀は参与編纂主任となり『長崎市史風俗編』を著しました。
長崎の美術史・宗教・貿易・医学・博物学の研究をし、深く究めていわゆる『長崎学』と呼べる基礎を確立した一書です。
古賀は公共図書館の設立を唱え、実現に奔走し明治四十五年(1912)新橋町に開館を実現させました。
これは大正四年(1915)に現在地の立山町に新築移転を果たしました。
大正九年(1920)日蘭親善に尽くした功績を認められて、オランダ女王勲章を贈られました。
昭和二
十九年(1954)九月六日、古賀十二郎は七十六歳の生涯を終えました。
大屋遠江守
(おおやとうとうみのかみ)のお墓
元当山の山門があったところに礎石が残っています。
その少し横のほうに五輪塔形式のお墓がたっています。
第一〇二代長崎奉行大屋遠江守明啓(みつよし)のお墓です。
大屋家の祖・大屋加賀守政信の後裔の重昌は福島正則に属していた。
が、届なしに城の修理を行ったとので正則が断絶してからは徳川御三家の一つ紀伊大納言徳川頼宣に従った。
のち四代の当主は紀州家に仕え、五代の孫、昌任も徳川吉宗に謁したといいます。
徳川家重は、言語が不明瞭であったといいますが、やがて、第九代の征夷大将軍となります。
しかし、その家重が二の丸に入る時に昌任は幕臣となりました。
明啓はそれから四代目の総領で、幼名は右京。
通称を図書といい、諱(いみな)が明啓、従五位遠江守を称しました。
先手鉄砲頭・火付盗賊改役・佐渡奉行・小普新奉行などを経て嘉永元年(一八四八)十一月一日に長崎奉行となり、翌年三月二十八日に着任しましたが嘉永三年(一八五〇)五月二十一日在任中に長崎で死去しました。
二十五日に喪を発しました。
菩提寺は東京豊島区巣鴨の本妙寺ということです。
平穏なうちに役目を終えたと思われますが、嘉永二年の六月に地役人に学問に励むことを命じ
たと記録があります。
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