寺院の歴史
日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが長崎のこの地にはじめサンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院ができ、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした。
純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります。
大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺を建てるに至ります。
キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍したと伝わります。
加藤清正公はお題目の五文字に因み、九州に五ヶ寺を建てようと発願されました。
即ち、熊本に本"妙"寺、大分、鶴崎に"法"心寺、長崎に本"蓮"寺、水俣に法"華"寺、大村に本"経"寺の五山であります。
元和六年(1620)長崎港を一望できる丘の上、サンジョアン・バウチスタ教会のあとに本蓮寺は建立されました。
山号の『聖林山』は清正公の母君の法号『聖林院殿天室日光大法尼』より二字をいただいたものです。
それは、開山本瑞院日恵上人が幼少の頃、加藤清正公の母君に撫育された時期があり、その御恩を思い山号に聖林の二字をいただいたのです。
正面に座られている日蓮上人像は、開山上人が脇差と共に徳川秀忠公より拝領致しました。
江戸より長い道中を運んで参ったものです。
途中箱根の関所をはじめて通った荷であると伝えられます。元禄の大火にも難を逃れました。
前の大戦にては長崎に原爆が落ちた時に本蓮寺は堂宇が灰となりましたが、この祖師像は無事でした。
先々代33世の室が裏山にこけてまろびつ助け上げたのです。
本蓮寺にまつわる話
●シーボルトのこと
シーボルトは文政六年(1823)年に二十八歳で長崎に渡来
していますが、それを聞きつけて日本の各地から人材が集まりました。
鳴滝にあります現在のシーボルト記念館のところに家を建て、週一回ほど、出島のオランダ屋敷から出向いて、病人を診療したり、学生達に西洋医学を伝授しました。
これが『鳴滝塾』となり、近代教育の始まりと言えるでしょう。
シーボルトは愛する『お滝さん』という女性がありました。
二人の間にはシーボルトが三十二歳、お滝二十一歳のときに
『おいね』という娘が生まれています。
この娘がこの後、日本で最初の女医となるのです。
シーボルトはアジサイの一種にハイドランジア・オタクサと学名をつけたのですが、その『オタクサ』が『お滝さん』の事であることはよく知られております。
シーボルトは三十三歳のとき幕府から追放されましたが、その後、二度目に来日した時には本蓮寺に止宿してお滝さん、おいねにあったといいます。
●太田南畝のこと
寛永二年(1749)うまれ、本名大田直次郎。蜀山人とも言います。
幕府の役人になりましたが、文筆、狂歌の方でほうで世に知られました。
文化元年(1904)五十五歳の時、『長崎奉行支配勘定方』として長崎に着任し、文化二年に立山町の官舎より本蓮寺の塔頭大乗院に宿舎を移しました。
ちょうど今の『教育文化会館』の位置に大乗院はありました。
蜀山人は長崎の方言で狂歌を詠んだことでも有名です。
わりたちも みんな出てみろ 今夜こそ 彦さんやまの
月はよかばい
彦山の上から出る月はよか こんげん月は えっとなかばい
二首とも本蓮寺で詠んだといわれます。
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